国際結婚
私は山形県のある村役場が主催した集団見合いに参加し、農村花嫁となって日本語も分からないまま日本に来ました。しばらくの間、平日は工場で働き、週末は夫の農作業を手伝っていましたが、やがて子供がうまれました。つらいこともたくさんありましたが、私にはとても幸せな日々でした。しかし、それは長続きしませんでした。子育てのことで同居中の夫の両親と衝突するようになったからです。私が子供にタカログ語などを教えることを嫌がり、日本語以外の言葉を使うことを禁止しました。さらに配偶者ビザの更新に必要な書類に印鑑を押してもらえず、私はとても困りました。夫の両親は子供を日本人として育てたいと考え、私にも日本人になることを要求したのです。けれども私はフィリピンを捨てることができませんでした。
ついに私は家を出ることになり、その後子供にも会えない生活が続きました。そんな様子を見かねた周囲の人々が夫の両親を説得してくれました。おかげで私は夫婦と子供だけで暮らせるようになりました。今別居中に始めたフィリピン文化の紹介活動などで、忙しく又充実した日々を送っています。
国际婚姻
我参加了山梨县的某个村委会组织的集团相亲,成为了农村媳妇,完全不懂日语的情况下来到了日本。一段时间内,平时在工厂工作,周末帮助丈夫干农活,不久孩子出生了。虽然也有很多不容易,但是对我来说每天都很幸福。但是,好景不长。为了抚养孩子,和丈夫的双亲产生了冲突。因为不喜欢我教孩子塔加洛语之类的,日语之外的语言的使用被禁止。而且配偶签证的更新所需要的文件上,不给我盖章,非常窘困。丈夫的双亲想要将孩子作为日本人进行抚养,也要求我成为日本人。但是我没法舍弃菲律宾。
终于我离开家,之后过上了见不到孩子的生活。看不下去这种情况的周围的人就说服了丈夫的双亲。多亏了他们,我过上了之后夫妻和孩子的生活。现在因为在分居期间开始的介绍菲律宾文化活动等,每天都过着繁忙而又充实的日子。